買ってでも苦労する?の話

藤田たくろうです。

今日の話題は、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というコトを言う人がいますが、さて、どうなのか。というコトです。

この言葉の辞書的な意味は、【若い時にする苦労は必ず貴重な経験となって将来役立つものだから、求めてでもするほうがよいということ。】だそうです。言われたことがある人もそれなりにいるんじゃないでしょうか。僕もその一人です。

言われた時もすごく違和感のようなモノを感じたのですが、今もその感覚は変わらず、まったく賛成する気持ちにはなりません。この言葉について考える機会があったので、ここに現時点(35歳7ヶ月)での僕の考えを記録する意味も込めて、ご紹介します。

まず表明しておきたいのは、僕自身、かつて苦労した事、大変な思いをした事は、今の役に立っているというコト。苦労をしたことで、僕は成長はできました。なので、そういう風に考えれば、「この言葉は正しい」となります。この言葉を口にする人も、きっと自身の経験から、相手の将来を思いやって発言するんだと思います。その点も、理解をしています。

ただ、その上で、やっぱりこの言葉には違和感を覚えます。今からその理由を3点、紹介します。

自分のやり方を強要する

1つ目。言う側が「自分もこのやり方で苦労をしたんだから、お前も同じやり方をしてみろ」という考え方をしている場合が多い点です。

先程も書いたように、「苦労した事で成長する」というのは自分自身も実感はしています。ただ、その事と「同じやり方をしなさい」というコトは別なんですね。それなのに、例えばパソコンなどを活用して時短を狙ったら「おれらの頃はそんな便利なモノはなかったんだ」というような雰囲気を出してくる人が少なくない。そして最後は、さも当然のコトのように「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と言う訳です。

これは、本当に愚の骨頂だと思いますね。大反対。時代によってやり方が違って当たり前です。無駄の多い古いやり方によって味わう苦労は「無駄な苦労」としか感じません。

分かりやすく例を挙げてみましょう。そうですね~。例えば、家の掃除にしましょうか。

掃除機がいつ開発されたのか知りませんが、掃除機のない昔は苦労をしたと思います。とりあえず、ほうきで掃きますよね。それから、雑巾を使って水拭きをしましょうか。ほうきで掃いても取り切れないチリやホコリがたくさんありますし、水拭きの雑巾を冷たい水で絞るのは(特に今の時期は)大変です。

今はどうでしょう。掃除機を使えば、ほうきで掃くより短時間で綺麗にできますよね。水拭きも、クイックルワイパー的なモノで使えば冷たい雑巾を絞る必要もない。かがんで腰を痛めるコトもない。それどころじゃないですね。放っておいたら自動で掃除やら水拭きやらをしてくれるロボットもあります。なんて便利な世の中でしょう。

「若いうちは苦労をしろ」というコトを前提に自分の若い頃と同じやり方を強要する人は、「おれらの若い頃は掃除で苦労をしたんだ。お前も掃除はほうきと雑巾で苦労をしろ」と言っているのと同じです。無駄な苦労の押しつけにしか思えませんよね。

思考停止に追い込む

2点目。なぜ、「苦労しない方法を考えろ」と言えないんでしょうか。

僕もそれなりの年齢(今年で36)になり、「若いうち」の範疇には入らない世代でしょう。僕より若い人たちが、僕自身も経験した事のある何かに取り組んでいると、「あぁこれは苦労するだろうな」と感じてしまうコトもあります。そんな時は「ここでした苦労が将来的に役に立つゾ」と思うこともある訳です。

でも、「進んで苦労しなさい」とは口が裂けても言わないし、思いもしない。そんな若手たちに仮に僕が声をかけるとしたら、

「苦労しない工夫をしなさいよ」

というコトです。どんなやり方でも、きっと苦労はするんです。なら、自分の頭で考えて、その苦労を少しでも軽減させる方法、少しでも楽に同じ結果が得られる方法を考えてやればいいやん、ということですね。

ここで思うことは、苦労には2種類あるぞというコトです。(1)何も考えずに味わった苦労。(2)少しでも苦労を減らそうと、自分の頭で考えて工夫して、でも結果的に味わってしまった苦労。この2種類です。どちらが、より将来の役に立つかは明白。(2)です。「若いうちは苦労しろ」という言葉は、若手を思考停止させ、苦労を減らすための努力を放棄させる言葉のように感じます。

年長者が見たら、結果的に苦労するのは目に見えている。なら、より若手が成長できるように導いてあげるのが年長者の役割だと思います。

苦労は投資

何度も立ち返りますが、『将来につながるから苦労を厭うな』という点は、僕も実感しているし、きっと正しいと思います。でも、つまり「苦労」は将来に対する「投資」と考えられるんですね。そうすると、また違った側面が見えてきます。

例えば、勉強。

大学受験の勉強にしても、資格試験の勉強にしても、副業をしたいと思ってする勉強にしても、苦労はします。でも、その苦労は将来の自分に対する投資だと捉えることもできます。そして、それらの勉強を頑張れる人というのは、その投資の先の「リターン」をイメージできているから、苦労を惜しまず勉強をし続けられるんだと思います。

このように「苦労」を「投資」と考えると、ちゃんと「リターン」に見合う苦労をしなさいよ、という話になってくるんですよね。

上の方で例えに出した掃除の話も、これで説明できます。ほうきとチリトリ、水拭きの雑巾で掃除をするというコトは、掃除機やクイックルワイパーで掃除するよりも、リターンが少ない。その割には労力も時間もかかってしまう。「投資」と「リターン」が、見合っていないんですね。

「若い頃は買ってでも苦労を」という言葉は、リターンなど考えずにガムシャラに苦労をしろ、という意味合いが強いと思います。そういう姿、日本人は好きかもしれませんね。でも、僕はそれがいいとは思えない。どうせ苦労をするなら、その苦労の先にどういう結果が待っているのか、それを見据えて苦労をしたらいいと思います。

昔はそれでもよかったかもしれない。みんな一斉に社会に出て、年功序列で出世して給料もきちんと上がっていた、そんな社会でしたから。でも今は違う。変化も激しいし、のんびりと不合理な事をしている間に、頭がいいヤツらは合理的な苦労をして、合理的なリターンを得て、どんどん先に進んで行ってしまいます。きちんと投資に対するリターンを想定しておく。それくらいしておかないと、生き残っていけない世の中であるようにも思います。

「若い頃は買ってでも~」と言っている人は、かえって若手の将来を奪っている可能性がある訳ですね。

……

……

以上3点が、僕が「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉に違和感を覚える理由です。

新年2発目だというのに、少し重めな内容になっちゃいましたね。しかも長い。笑

という訳で、本日の結論!!

苦労は厭うな。でも、最小の苦労で同じ結果を生む努力をしろ!!

そんな感じです!

藤田たくろうでした。
ちゃお♪

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